東大阪の郷土史

当医院のあります東大阪市は弥生時代より続く歴史のある町です。過去を伝える町並みや史跡は市内各所に今も見ることができます。旧布施市を中心にその題材を探し、東大阪市西歯科医師会会員広報誌(よみすて瓦版)の「布施郷土史」というコーナーに執筆したものです。

布施 昭和初期の娯楽と発展

大きなショッピングセンターが西宮球場跡地や滋賀県の草津にできたと聞きますが、これら最近の大型ショッピングセンターのつくりというのは、大型スーパーと専門店そしてシネコンと呼ばれる映画館やゲーム施設から成り立っているのが一般的です。昭和のはじめに発展していった布施周辺の商店街も映画館や劇場などの娯楽を中心に広がっていた様でした。
昭和12年に発行されました「布施町誌」の「娯楽」の欄には昭和11年4月現在、布施町には活動写真(映画館)が2軒、寄席が1軒、撞球場(ビリヤード)13軒、射的場2軒、魚釣り場8軒、囲碁(碁会所)10軒、将棋会所6軒、飲食店275軒と記されており、解説として「布施町は近郊各町村の娯楽の中心となっており、その教育的効果の善悪は別としても明らかに新興の勢を一面に反映するものである。町民の之に対する関心も、以前農村時代の青年たちが床屋等に集まり多く座談をしたものが、漸次にその中心をここに移して新しい青年の娯楽場として迎えられてきたことは大きい変化である」と述べています。昭和8年の布施町内の常設興行場は足代座、第二足代座、昭栄座の3カ所であったことから、これらの2軒は映画館、1軒が寄席として営業していたことがわかります。
「大阪府警察統計書」というものから引用しますと、昭和10年においてほぼ毎日興行を行っていた興行場は、上記の足代座、昭栄座の他に小阪町の小阪座、昭和座や弥刀村の長瀬座などが記載されており、年間入場者数は足代座が102407人、昭栄座が115648人、小阪座が67209人、昭和座が47907人、長瀬座が70813人などとなっています。また、興行の内容についても記載されていますが、そのほとんどは活動映画となっており、娯楽の中心が芝居や講談、落語などから映画へと移行していった時期であることも推察されます。
昭和6年3月15日の「大阪朝日新聞」には営業願と共に建築届が御厨警察署に押し寄せていると報じ、「営業願いの方は料理屋、飲食店、カフェーが主で湯屋、散髪屋、劇場が多く、布施町のカフェーの増え方と来たら物凄いばかりで、1、2ケ月で営業主のかわるのもまた多い」と記しています。また、同紙の同年11月12日付には、「小阪付近では平均一日十軒の家が建つと言われ、外にも工場、興行または遊技場、料理飲食店等の激増は他郡に比なく、」と記されています。先述の「布施町誌」においても「近年最も著しい事情は接客業の発達である」、「昭和11年末の職業調査では接客業に従事する世帯376世帯」、「東足代の商店街を中心とする一帯の地域では殆ど軒並み娯楽的飲食店を見る有様となっている」などの記述があります。それまでは人口数千人の農村であった布施周辺の地域は大正後期より人口が急増し、それに伴い昭和初期にかけて住宅街や繁華街等が出現し都市化していったことがうかがえます。

昭和初期の広小路商店街 大阪東部の娯楽の中心地だった



昭和初期の足代座 多くの人で賑わいのぼりが立っている