近鉄の前身会社が行っていた東大阪市内の電力供給事業
この度の東日本大震災では、地震とそれに続いた津波により甚大な被害がありましたが、復興に向けて最も障害となっている事象は福島第一原発事故にあると言えるでしょう。まだまだ、原子炉そのものの沈静化もままならない状況下で、全国の電力会社を国直轄の発電会社と地域の配電会社に分離してはどうかという議論が政府などでおこっています。
現在東大阪でも当然の様に関西電力という巨大な独占会社が電力供給を行っていますが、戦前にはもっと小さな範囲の地域でそれぞれ財力をもった民間企業によって電力供給が行われていました。戦争が激化していく昭和10年代頃までは、東大阪地域においては最も大きな財力とインフラを持っていた大阪電気軌道(現在の近鉄)が電灯電力供給事業を行っており、同社の社史には鉄道事業とともに社業を支える重要な事業として東大阪および生駒、奈良地域において配電網を拡大していった記録が残っています。
昭和初期、大阪市に隣接する東大阪地域は都市化・工業化が進展し人口と事業所数が急激に増加していきました。それにつれて生活の近代化や産業活動の機械化のためエネルギーとして電気の需要が急速に高まり、大阪電気軌道ではそれまであった布施や玉川などの変電所に加え、弥刀変電所(昭和5年8月竣工)、盾津変電所(昭和10年5月竣工)、稲田変電所(昭和14年6月竣工)、枚岡変電所(昭和15年9月竣工)など次々に建設し、電気供給設備の整備に努めていきました。
ところが日本国が戦時体制強化に向かい国家統制政策が政府の手で強力に推進されるにつれ、電力もその生産・供給を国家の管理体制下に移すという方針が検討され、昭和15年9月には電気行政を主管する逓信省より「発送電と配電とを分離し『日発』を現在の日本発送電会社法の強化による全国一社の経営とし、配電は全国を数ブロックに分ち特殊会社を設立し経営せしめる(のちの配電統制令)」との見解がまとめられました。これに従い全国を9ブロックに分け、おのおの一社の配電会社を設立し(これが今の関西電力、中部電力、東京電力、東北電力などに相当する)業務運営に当たらせるという方針が示され、各会社のブロック内に多く存在していた小さな民間電気事業会社は各自保有する事業施設をこの巨大配電会社に出資するというかたちで、事業を取り上げられる事となりました。東大阪から奈良にかけて配電事業を拡大していた大阪電気軌道も昭和16年9月、この配電統制令により、『関西配電株式会社(現在の関西電力)』設立のために、逓信大臣から供電事業用設備の出資命令を受けました。
このようにして、大阪電気軌道は建設してまだ数年も経たないものも含めて送電設備、変電設備に加え配電設備、需要者屋内設備、営業設備など総額1299万2000円の事業用設備を関西配電株式会社(現、関西電力)に出資し、さらに319人にのぼる関連従業員を同社に移籍させ、30余年にわたり地域の発展にあわせて事業拡大をしてきた供電事業からの撤退を余儀なくされました。
大阪電気鉄道が開業した当初、河内小阪駅北側には大きな車両基地がありました。その後、車両の大型化に伴い車両基地は移転されましたが、その跡地には近鉄が所有するビル群や公団住宅が建ち並んでいます。その一角の駅前一等地(小阪1丁目)に、現在も大きな緊急車両基地を持った『関西電力株式会社東大阪営業所』があるのは、このような大阪電気軌道( 現、近鉄 )の供電事業と関西配電株式会社( 現、関西電力 )設立の経緯と深くかかわっています。
写真説明:現在の関西電力東大阪営業所ー写真左側道路の両側が近鉄ビル、突き当たりが近鉄河内小阪駅