東大阪の郷土史

当医院のあります東大阪市は弥生時代より続く歴史のある町です。過去を伝える町並みや史跡は市内各所に今も見ることができます。旧布施市を中心にその題材を探し、東大阪市西歯科医師会会員広報誌(よみすて瓦版)の「布施郷土史」というコーナーに執筆したものです。

秩父宮殿下と花園ラグビー場

日本ラグビーのメッカとして全国に知られている花園ラグビー場(写真1)は、大阪電気軌道(現近鉄)の昭和御大礼記念事業の一つとして、昭和4年に建設されました。この、ラグビー場建設計画には、当時スポーツの宮様として知られ、ラグビー振興に強い関心を持っておられた秩父宮殿下のお言葉が大きく影響していました。殿下は大正天皇の第二皇子で大正11年に秩父宮を創立し、同14年からイギリスに留学し昭和2年に帰国されました。この殿下が御帰朝御奉告のため神武天皇陵に参拝された時、同行した大阪電気軌道専務の種田氏が同社の事業について説明した折、「ラグビーといふ競技は好い競技だが、それについて何か計画はあるか」とのご質問があったのが最初のお言葉でした。そして、翌3年2月21日の紀元節に甲子園球場で開催された第一回東西対抗ラグビー試合に臨席される前日に、大軌電車に乗り橿原神宮に参拝された殿下から「沿線にはずいぶん空地が多いじゃないか。この辺に今台頭しつつあるラグビーの専用競技場を作ったらどうか。乗客も増えて会社も利益を得るのではないか」と車窓の感想として歓談の中で提案されたのが2度目のお言葉でした。さらに、その後間もなくして再度、殿下が大軌電車に御乗車される機会があり、この時またラグビーの話題となり「まだ、グランドはできないのか」催促されたのが3度目のお言葉でした。
3度ラグビー場建設を提案され、最後にはハッパをかけられた当時の大軌社長金森又一郎氏はいたく恐縮するとともに、こんなにまで殿下がラグビーにご熱心であるならば、すぐにでも思召しに沿わなくてはと、ラグビー場建設を決意したそうです。大軌ではすでに昭和2年、後の近鉄社長の佐伯勇氏を含む有志10数名が集まり、ラグビーチームが結成され(昭和4年正式に創部)、高安工場の敷地内で練習を開始していましたが、これを機に東大ラグビー部出身の沢田健一氏をラグビー場建設責任者として急きょ入社させました。さらに、西部ラグビー協会と協力して専門委員会を設置し、イギリスのトウィッケナム・ラグビー場を模範として、花園ラグビー競技場の設計をすすめました。
建設予算50万円を計上し、グランドを高麗芝で覆い大鉄傘付きのメインスタンドを西側に配置した、12000人収容の東洋唯一のラグビー専用競技場は、同4年2月に着工し、突貫工事で同年11月には完成しました(写真2)。11月22日、秩父宮殿下ご夫妻を迎えて華々しく開場式が挙行され(写真3)、全日本OB対学生選抜の記念試合が行われましたが、このときのエピソードとして11月23日の『大阪朝日新聞』に「秩父宮さま御成りの道普請 青年団が奉仕」の見出しで次のような記事が載せられています。「中河内郡英田村青年団新家支部では、花園グランドに秩父宮殿下お成りをお迎えする前日の二十一日、折から大雨でお道筋にあたる約一町半の道路に水が一尺余も溜つて全くの泥海と化したので、同日午後四時過ぎから団員五十五名が全部出動し、それに在郷軍人も加はつて大改修に努め、二十二日朝六時すぎにやつと面目を一新して殿下をお迎え申し上げ、引続いてはお帰りになるまで警戒の任に当つた。」
今シーズンから社会人ラグビーが生まれかわり、トップリーグと呼ぶ全国上位12チームの総当たり戦でナンバーワンを競うシステムになりました。この花園ラグビー場に本拠地を置いているわれらが「近鉄ライナーズ」もトップリーグの一員ですが、今シーズンの結果は10位と低迷し辛くも地方リーグとの入れ替えという事態は逃れました。
参考資料:東大阪市史 近代II/近鉄ラグビー部70年史/大阪電気軌道株式会社三十年史 他

<写真1>平成4年 新装された近鉄ラグビー場全景



<写真2>昭和4年11月に完成した花園ラグビー場メインスタンド



<写真3>昭和4年11月22日 花園ラグビー場開場式にご台臨される秩父宮殿下ご夫妻



<写真4>現在の近鉄花園ラグビー場正面入り口 後方のクレーンは多目的遊水池をかねたラグビー場や野球場有する中央公園の建設現場