東大阪の郷土史

当医院のあります東大阪市は弥生時代より続く歴史のある町です。過去を伝える町並みや史跡は市内各所に今も見ることができます。旧布施市を中心にその題材を探し、東大阪市西歯科医師会会員広報誌(よみすて瓦版)の「布施郷土史」というコーナーに執筆したものです。

小阪町営団地住宅建設と八戸ノ里駅開業

私のおります塚本歯科医院(東大阪市小阪2丁目15)の地域の八戸の里小学校は、今年創立50周年を迎え、秋には学校、PTA、地域町会などが主体となり、盛大な記念式典も計画されています。この「八戸の里」の地名は、正式な地名表示に存在せず、また近鉄の駅名は「八戸ノ里」、小学校の名称は「八戸の里」など表記も一定しませんが、府道中央環状線以西、近鉄奈良線付近一帯の通称で、この地が拓かれた昔、近隣に八戸の家があったことに由来するともいわれています。昭和初期、駅もなく田園風景が広がっていたこの地に、当時の小阪町によって四三二三坪五合(14293平方メートル求jの宅地を造成し住宅50戸を建設する、日本で最初の町営分譲住宅が計画されました。
この町営団地住宅建設案は、昭和10年2月27日の町会に提出されました。翌28日付の『大阪朝日新聞』は、「中流以上の家庭を目標」に「模範住宅」50戸を「小阪町で建てる」と報じ、5月3日付の同紙は、「小阪駅の東七丁の地点」に新駅設置の計画が進められていて、小阪町では「町東部の急激な発展」を促進する意味で、「新駅南方三丁の地点」に「模範的町営住宅五十戸を建設の計画」と報じていました。同年12月27日付の同紙には、「待望の小阪町営住宅、新春早々から着工」との見出しで、「かねて府都市計画課で設計中」の「十一種の設計図」が完成したと報じ、「さすが府都計課が腕によりをかけて設計しただけに景観や間取り」が、「普通の住宅」と比べて「よほど立派」に出来ていると記していました。
「小阪町営団地住宅建設事業概要」によると、整然と区画された50戸の敷地は、80坪程度、64坪程度、51坪程度の3通りあり、延べ建坪は敷地面積に応じて33坪余(第一号住宅)、29坪前後(第二号住宅)、26坪前後(第三号住宅)と大きく三つに分けられていました。住宅はいずれも二階建て木造瓦葺きで、屋根は切り妻または方形入母屋とし、外観や間取りも和風と洋風を取り混ぜた11種類が設計されました。
町営住宅の建築が始まったのは昭和11年8月6日で、この時すでに数倍の購入申し込み者のなかから抽選によって居住者が決定されていました。11月5日に50戸全部が完成し、この小阪町営の住宅団地は入居者によって「東翠園」(大阪の東に位置するみどりの園)と名付けられました。各家の表に塀を造らずに生垣で囲い、5mおきにアカシヤの並木が植えられるなど、その名にふさわしい町づくりが行われました。小阪駅東方の新駅も11月には竣工し、「八戸ノ里」駅の名で乗降が開始され、東翠園の中央には、幅8メートルの府道八尾ー稲田線が貫き、300メートル余り北の八戸ノ里駅と連絡していました。
『大阪朝日新聞』昭和11年11月1日付は、「小阪町営住宅、東翠園落成、十五日盛大に挙式」と報じ、「『移住者』二百余名が町民となるのは十日前後」で、同町では安井英二知事に依頼して「住宅名を石柱に刻んで住宅入口に建て落成を記念する」「七日、日本建築協会の見学が行はれるはず」と記していました。
現在の八戸ノ里駅前の布施高校南側にある八戸の里病院の周辺がこの東翠園にあたります。その多くはすでに建て替えられていますが、布施・小阪地域が急速な発展の波に乗り活気づいていた昭和10年代の面影を残す少々ハイカラな住居を今も見ることができます。

<図1>第1号住宅(イ)の間取りと外観図
(山澤家文書)



<写真1>現在の八戸ノ里駅南側(東翠園方向):右側の5階建ての建物が八戸の里病院、左側の瓦屋根の民家は府道に面して現存する町営住宅



<写真2>和風様式の現存する町営住宅



<写真3>洋風様式の現存する町営住宅