東大阪の郷土史

当医院のあります東大阪市は弥生時代より続く歴史のある町です。過去を伝える町並みや史跡は市内各所に今も見ることができます。旧布施市を中心にその題材を探し、東大阪市西歯科医師会会員広報誌(よみすて瓦版)の「布施郷土史」というコーナーに執筆したものです。

明治・大正・昭和初期の警察事情

近年、なにかしら殺伐としてきたようにも感じられる世の中になってきましたが、郷土史としてはかなり最近の話、われわれ布施の治安を守ってきてくてた警察署の歴史をたどってまいります。
旧布施市内の警察施設は明治7年2月に旧御厨村に屯所(とんしょ)が置かれたのに始まります。この屯所というのは、邏卒(らそつ)と呼ばれた巡査が時々交番張りするところとされていました。明治10年になりますと八尾警察署内に、御厨分署と松原分署(のちに額田分署に改称)が設けられ、同14年4月1日には奈良街道沿いの御厨村1082番地の民家を借り、「八尾警察御厨分署」が設置されました。つまり、旧布施市を概ね担当地域とする現在の布施警察署はもともと八尾警察署の分署という扱いで、しかも民家を間借りした小規模なものであったということです。その後、明治16年8月、府費900円を投じて敷地60坪、建坪26.5坪の庁舎が建築され、さらに同35年11月には庁舎の隣地210坪の寄付を受けて改築がなされました。明治16年の記録には署員数は警部補(分署長)1名、巡査7名の計8名で、庁舎の平面図を見ますと、尋問所が3坪、留置場が1坪5合などと記載されています。<図1>
大正12年の郡制廃止に伴い、同15年7月1日、内務省は分署制度を廃止し、それを警察署に昇格させたことから、御厨分署も開設から約45年経過してようやく八尾警察署から独立し御厨警察署となりました。当時の記録では御厨警察署の署員数は警部1名、巡査部長1名、巡査12名の計14名であり、担当地域の人口は46686人(戸数10627戸)であったことから署員一人当たり3335人もの住民を負担していたことになります。ただし、布施町史より同年の布施町内の車両数を引用しますと、自動車4・自転車794・人力車7・荷車303・牛馬車38と記されており、交通事故やまた事件などの発生率は現代とは比較にならないほど少なかったのだろうと想像されます。
その後、大正3年に大軌電車(現近鉄)が開通したことから、人の往来もしだいに街道から鉄道沿線に移り、奈良街道沿いの御厨警察署は不便な立地となりました。また庁舎の老朽化や署員の増加もあり、昭和3年4月、小阪駅北西300メートル(現在の菱屋西5丁目)、川島耕地整理組合から寄付された330坪の土地に、工費52821円を投じてコンクリート2階建ての新庁舎が建設されました。<写真1>
そして、昭和12年4月の布施市制施行に伴い、同年6月1日に布施警察署と改称しました。この頃になりますと署員数も急増し、警部1名、警部補5名、巡査部長10名、巡査104名、職員2名の計122名となり、署員一人あたり約1000人の住民を担当していたことになります。また管内に派出所が18か所、駐在所が4か所あったそうです。<図2>
ご存じのように、昭和40年に俊徳道駅前に布施警察署が移転し、その後別館が増築されるなどして(鉄筋コンクリート、地下1階、地上3階、建延約3150平方メートル)、今では署員数も400名をこえる規模に拡大しています。御厨分署時代と管轄地域があまり変わっていないことを考えると、この旧布施市地域が急速に発展し、治安がいかに変化していったのかがうかがえます。現在、幅3~4メートルほどの曲がりくねった旧奈良街道を歩きますと、御厨分署のあった場所(御厨4丁目)には地域の公民館とお地蔵様が建っています。<写真2>
参考資料:回想100年/布施警察署、東大阪市史(近代I)、他

<図1>明治16年当時の御厨分署の建物平面図
尋問所3坪、留置場1坪5合などの記載が見られる。

 

<写真1>昭和3年4月 現在の菱屋西5丁目に移転した御厨警察署新庁舎開庁式当日の玄関前の様子

 

<図2>昭和6年当時の御厨警察署管内地図
若江村、長瀬村は八尾警察署管内に属していた。また、旧布施市以外では盾津村、玉川村が御厨警察署の管轄であった

 

<写真2>昭和3年まで御厨分署の置かれていた場所の現在の様子
小阪から東に向かい旧奈良街道を進むと、狭い道が大きく折れ曲がった先に地域の公民館とお地蔵様が建っている