木村重成が炎上する大坂城を望んだ馬立(ウマンタテ)
名古屋の好景気、東京の経済回復に比べ、関西経済の低迷はまだまだ続いており我々頭の痛いところです。天下統一した豊臣秀吉が62歳で病死した後、関ヶ原の戦で勝利した徳川家康は東方の江戸に都をおき地盤を固めていくとともに、豊臣家の本拠地である大阪を徹底的に叩きつぶしていきましたが、その影響が今も残っていると考えるのはすこし話が飛躍し過ぎているでしょうか?
慶長20年(元和元年・1615年)の大坂夏の陣において、木村重成という大坂方の部将が活躍しその名を残しました。5月6日京都を出発し東高野街道を南下して河内から大坂に攻め込もうと進軍した徳川方の軍勢に対し、河内の若江で陣をはっていた木村重成が迎え撃ち、長瀬・玉串川に挟まれた水田地帯で大激戦を繰り広げました。その戦闘のさなか重成は敵に囲まれてろう城状態となった大坂城へ救援に向かおうとして、彌榮神社の辺りまで兵を進めました。ここは、当時旧大和川の右岸にあたり洪水を防ぐための新堤が設置されており周囲の田畑より一段高く、はるか上町台地を十分に望むことができましたが、ここで、彼が観たものは眼前に炎上する大坂城でした。意気消沈した木村重成は馬の上に立ち、大坂城に別れを告げ再び若江に戻っていったとの言い伝えがあり、この場所は馬立(ウマンタテ)と呼ばれる様になりました。
最後は徳川方、井伊隊の部将山口伊豆守重信と一騎討ちとなり、相打ちで戦死してしまいましたが、400年過ぎた現在も、若江南町に木村氏の陣屋跡があり蓮城寺には彼の位牌が祀られています。またそこから南西の若江東町と第二寝屋川を挟んで八尾市側に木村公園という公園があり、そこに木村氏の墓が残されています。
木村重成が眼前に炎上する大坂城を望んだといわれる馬立(うまんたて)は現在、民家が立て込んだ中小阪2丁目にある彌榮神社の北西角にあたり、駐車場として使われていますが、その入り口は確かに西側を走る細い市道よりも急に50?ほどのぼるような構造になっています。しかし、そこから北西方向を見ても大阪城どころか近鉄小阪駅さえも当然見ることができません。
参考資料:東大阪市の歴史と文化財-改訂版-/東大阪市教育委員会、布施市史第一巻/布施市、東大阪の歴史/藤井直正・松籟社、他
<写真1>現在の馬立(ウマンタテ)
中小阪2丁目にある彌榮神社の北西角にある駐車場の入り口が市道より1mほど急に高くなっている。ここで木村重成は炎上する大坂城を見つめ馬の上に立ち上がったと言い伝えられている。
<写真2>ウマンタテのある彌榮神社
旧大和川支流の堤防であった所に建つ彌榮神社はスサノオノミコトを祭神としてまつり、牛頭天王ともとは称されていました。境内には根の露出したニセアカシアの木が数本残っていますが、これは堤防上に生えていたものですが、周囲の土が削られていき根が露出したものです。