東大阪の郷土史

当医院のあります東大阪市は弥生時代より続く歴史のある町です。過去を伝える町並みや史跡は市内各所に今も見ることができます。旧布施市を中心にその題材を探し、東大阪市西歯科医師会会員広報誌(よみすて瓦版)の「布施郷土史」というコーナーに執筆したものです。

応仁の乱へと発展した若江城をめぐる家督争いとその後

年末恒例のテレビ東京12時間時代劇で昨年は明智光秀を取り上げ、戦国武将の生き様を描いておりました。鎌倉時代に軍事・警察を委任されて日本各地に地方官として派遣された守護はしだいに領内の武士を勢力下におさめ、室町時代には領国を支配するようになり、守護(大名)領国制が確立されていきました。室町幕府も後半になると、将軍足利家は京都で貴族のような優雅な生活に明け暮れるようになり、やがて地方の有力守護の台頭や税収の減少によりその力は急速に弱体化し、世は戦国時代へと突入して行くのでした。応仁元年(1467)に始まる応仁の乱は、日本史の教科書に必ず記載されている戦乱の時代の幕開けとなり京の町を焼き尽くしたと言われる戦ですが、その発端は河内国の守護であった畠山家の家督争いであり、その争いの舞台が幻の城と言われる若江城であったことは、我々東大阪に住む者もほとんど知らないことだと思います。
河内地方は南北朝合一の後、足利氏の一門であった畠山基国が入国して守護となって支配し、その補佐役として遊佐長護を守護代という役職においていました。現在ではその詳細が分からない若江城はもともとこの守護代遊佐氏の本拠地であったと考えられています。宝徳二年(1450)、畠山家三代目畠山持国の跡目争いが畠山政長(まさなが)と畠山義就(よしなり)の義兄弟間で勃発しました。都を追われた義就がこの若江城に立てこもり、それを政長が攻めるという展開で始まったこの家督争いは、守護代の遊佐家も二分して拡大していきました。若江城をめぐる両者の攻防戦は、やがて有力守護大名の細川氏と山名氏がそれぞれの後ろ楯となって争うことになり、応仁元年(1467)五月には、畠山政長ー細川家ー他24か国・16万の軍兵(東軍)と畠山義就ー山名家ー他20か国・9万の軍兵(西軍)の両軍が京の都を舞台にした長期に渡る戦闘をはじめるに至り、いわゆる応仁の乱へと発展して行きました。
さて、この若江城とはどのような城であったのでしょうか。その名は戦国時代の史料に散見されますが、築かれた年代や場所、さらに規模・構造についてはほとんど記録がありません。「長禄寛正記」によると、若江城の周りは深田でこれが自然の濠の役目を果たしており、この深田の中に逆茂木を引いておくと攻撃側の騎馬は急速に城に押し寄せることができず、敵が手間どっている間に城内の盾の間から矢を射かけて倒すことが出来たそうです。旧大和川が網の目のように蛇行して流れる沼地のような平野の中の微高地に建てられた城は、周囲を十分に見渡すことができる自然を利用した要塞であったことでしょう。その後の若江城は、織田信長の時代になり天正元年(1573)にはキリシタン大名であった池田丹後守(シメアン・イケピダフンゴ)が城主となり、天正五年(1577)には城内に教会や十字架を建てていたとの記録が残っています。また、天正六年(1578)九月には堺に行く途中の織田信長が宿泊したとの記録が残されていますが、この城は石山本願寺攻撃の拠点として使われたのち、忽然と消滅してしまいました。
大正八年、大阪府により現在若江公民分館が建つあたりに「若江城址」の標石が建てられたそうです。また旧住居表示では城の存在を物語る小字名やその周辺の若江北町に「クルス」(十字架を表すクロス)、若江南町に「大臼(だいうす)」(ゼウスの語が変化したもの)という字名が残されていました。本丸が存在したと考えられる地点は、現代になり府道が走り南北に分断されてしまいましたが、昭和47年若江小学校校舎建設時に中世の井戸・柱穴・溝などが多数発見され若江城の存在が裏付けられました。
参考資料:布施市史第一巻/布施市、東大阪の歴史/藤井直正・松籟社、他

<写真1>大正時代の若江城跡
周囲は田畑で囲まれており、そこから一段高くなったところが若江城本丸のあったところと考えられていた。

 

<写真2>若江城発掘調査の様子
府道のすぐそばの発掘調査で多数の瓦が出土している。


<写真3>現在の若江城跡
車が行き交う府道を挟んで若江公民分館の南側に「社」と一文字だけ刻まれた古い石碑が現在も残っている。