東大阪の郷土史

当医院のあります東大阪市は弥生時代より続く歴史のある町です。過去を伝える町並みや史跡は市内各所に今も見ることができます。旧布施市を中心にその題材を探し、東大阪市西歯科医師会会員広報誌(よみすて瓦版)の「布施郷土史」というコーナーに執筆したものです。

河内湖に面する朝廷直轄地であった御厨

小阪から八戸の里の北側に広く位置する御厨の地名の由来については、この「厨」という文字から何となく厨房に関係があるのかなあと連想させられます。それに、丁寧に「御」という文字が頭に付くのですから、何やら高貴な方のためのお台所としての施設でもあったのでしょうか?現在の御厨には餃子の王将や牛丼の吉野屋などが立ち並び、私のお昼ご飯のためになくてはならないお台所の役割を果たしてくれているのですが。。。ところが、これは少し的が外れた想像の様で、古代・中世の歴史上の用語では「御厨」とはお台所そのものを指すのではなく、朝廷・皇室のお台所で使われる様々な品物を集めて貢進するところを意味したそうです。当然その地は朝廷の直轄地であったそうで、河内国には皇室領『大江御厨』が延喜五年(905年)に成立したと大江親通の日記『山槐記』に記されています。
 平安時代、延長五年(927年)に完成した『延喜式』は当時定められていた国の規則をまとめたものですが、この中には河内国『大江御厨』から朝廷に寄進される様々な物産が記されています。菓子(果実)としてはアケビ、イチゴ、ヤマモモなどがあり、また元旦や五月五日や十一月の新嘗会などの七節会には七荷の雑鮮味物(水産物)が内膳司に供進されていました。中でも河内国の産物であった蓮については、細かく種類と量、供進の期日が定められていたようです。
 では、どうしてこれだけの豊富な農産物、海産物をこの河内国から供進することができたのでしょうか。それには、この地域の当時の地形が大きく関わっています。今から数千年前の縄文時代、河内平野の北部には海が入り込み河内湾が形成されていました。そして弥生時代以降、この湾は淀川、大和川の運んできた土砂が堆積するにつれ淡水化していき河内湖が形作られていきました。この周辺では、湖に住む多くの水産物と肥沃な土地に自生する農産物を得ることができたと考えられます。その中でも、現在「御厨」という地名が残っている地区は、河内湖に面した自然堤防上に発達した集落であり、北側からは水産物、南側からは農産物の搬入が容易であったようで、皇室領『大江御厨』の中心地でこれを管理するための施設が存在したとも考えられています。
現在でもその面影を追うことが可能な奈良街道は御厨地区を東西に貫いていましたが、これはかつての河内湖の汀線に相当していました。旧御厨村の中央に位置し、奈良街道から北に向かい参道がのびる天神社(てんじんじゃ)は先述の『延喜式』に記載されている意岐部神社にあたるといわれています。ここには、『大江御厨』が定められていた時代から現在に至るまで、御厨の町並みや人々のくらしの移り変わりを見守ってきた、東大阪市内最古のクスノキ(推定樹齢900年)があります。
参考資料:郷土史のたのしみ/(財)東大阪文化財協会 他

<図1>約6000年前の河内平野
海が大きく入り込み河内湾を形成していた。


<図2>約2000年前の河内平野
淀川、大和川から運ばれた土砂が堆積するとともに、上町台地が北に伸び河内湾は淡水化していき河内湖が形成された。


<写真1>天神社
旧御厨村の中央、奈良街道の北側にあり、延長五年(927年)に完成した『延喜式』に記述されている意岐部神社にあたるとされている。境内には推定樹齢900年といわれる東大阪市内最古のクスノキ(写真右側)がある。