東大阪の郷土史

当医院のあります東大阪市は弥生時代より続く歴史のある町です。過去を伝える町並みや史跡は市内各所に今も見ることができます。旧布施市を中心にその題材を探し、東大阪市西歯科医師会会員広報誌(よみすて瓦版)の「布施郷土史」というコーナーに執筆したものです。

河内国・大蓮地と中将姫伝説

 
平成14年の東大阪市西歯科医師会青年部の研修旅行は三朝温泉に行きました。帰りに案内していただいた「伯耆古代の丘公園」では大きな蓮池があり、約40種の古代蓮が展示してありました。(残念ながら花の季節ではありませんでした)このとき、東大阪の大蓮地区には大昔、蓮が多く原生していたとの話を教えていただきました。ご存じの方も多いと思いますが、「大蓮」という地名は昭和47年7月に今の住居表示が実施されるまでは「おばつじ」と読んでいました。調べてみますとこの難読地名の由来は、この辺り一帯が低湿地で、蓮の生い茂る沼や池があり、それを「大蓮地」すなわち「おおはすぢ」と言っていたのが訛ったのであろうと言われています。
話はがらっと変わりますが、『阿弥陀経』本論の書き出しで、『その時、仏は長老、舎利弗に告げたもう。「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり。名づけて極楽という」』というくだりがあるそうです。これは阿難尊者がインドの祇園精舎で、阿羅漢ら高徳の修行僧1250人を前に、師の釈迦から聞いたという弥陀仏が住む極楽浄土の風景を華麗に語りはじめる場面だそうです。今から1200年前の奈良時代に、時の右大臣であった藤原豊成に中将姫という若くして出家した娘がいましたが、この『阿弥陀経』本論の書き出しに出てくる極楽・阿弥陀浄土の世界を夢に見て阿弥陀仏に一目会いたいと一心に祈ったといわれています。そして、蓮の糸で阿弥陀浄土をあらわした曼陀羅を織ることを発願し、諸国に蓮糸を求めたそうです。
河内国の現在の大蓮あたりで思いどおりの蓮糸を得ることができた姫は、これを集め井戸に浸し、五色に染まった蓮糸を使って、一夜で一丈五尺(約4m四方)の「蓮糸曼陀羅」を織り上げたという言い伝えがあります。中将姫が極楽浄土に向かうシーンを再現した練供養会式で有名な當麻寺(奈良県北葛城郡)の本堂は曼陀羅堂とよばれていますが、ここの六角宮殿型の厨子(国宝)に、この「蓮糸曼陀羅」(俗に「當麻曼陀羅」と呼ばれています)が本尊として掛けられています。しかし残念なことに、実際に姫の織ったと伝えられている「綴織當麻曼陀羅図」(国宝)は破損が激しいため別に保存されており、現在本堂に納められているのは室町時代の文亀年間(1501~3年)に模写された「文亀本當麻曼陀羅」(重文)だそうです。
戦時中の防火空地の設置や昭和40年代の中央環状線の建設などで、古い町並みさえ少なくなった現在の東大阪市大蓮地区では、奈良時代に多くあったといわれる蓮池や沼のおもかげなどはどこにも見られません。しかし、金岡中学から約100mほど南西に歩いたところ(大蓮東1丁目10)に、この地と中将姫の関係を伝える「大蓮経塔」という中将姫をまつる小さなお堂が今も残っています。
参考資料:郷土史のたのしみ/(財)東大阪文化財協会 他
 

<写真1>當麻寺練供養会式(国選択無形民俗文化財)
中将姫が當麻寺で現身のまま往生されたという伝承を再現して演じるのがこの練供養であり、曼荼羅堂から娑婆堂に架けられた100メートルほどの来迎橋を面をかぶり装束に身をかためた二十五菩薩や観音菩薩、勢至菩薩、普賢菩薩らが往復する。

 
 

<写真2>曼陀羅厨子(国宝)と文亀本當麻曼陀羅(重文)
扁平な六角形漆塗厨子(天平時代作)に現在當麻寺曼陀羅堂の本尊として安置されている當麻曼陀羅(室町時代の文亀年間に転写されたもの)が掛けられている。 

 

<写真3>大蓮経塔
中将姫の供養塔といわれるが銘文にその記載はない。宝暦4年に建てられた一石一字経塔で現在の大蓮東1丁目にひっそりと建っている。