東大阪の郷土史

当医院のあります東大阪市は弥生時代より続く歴史のある町です。過去を伝える町並みや史跡は市内各所に今も見ることができます。旧布施市を中心にその題材を探し、東大阪市西歯科医師会会員広報誌(よみすて瓦版)の「布施郷土史」というコーナーに執筆したものです。

四天王寺創建当時にみられる足代の地名

 
東大阪市の中心布施、そのさらに中心である「足代」の地名については、その由来を示すような古い神社や史跡などが現在あまり見当たらず、せいぜい鎌倉時代以降ものかとも考えられます。しかし、実は衣摺等の地名と並んで東大阪の中でも古い地名で、古墳時代より存在していたようです。
さて本題に入る前に、以前にここで紹介いたしました「衣摺の戦」について「日本書紀」等の記載からもう少しその状況を詳しく解説します。蘇我馬子・厩戸皇子(聖徳太子)らの急襲に抵抗して、物部守屋は衣摺に稲城(いなぎ)を築いて激しく防戦しました。抵抗にあい退却を余儀なくされた厩戸皇子(太子)は、一時逆に守屋の大軍に囲まれ絶体絶命となったことがありました。このとき、そばにあったクスノキの大木が突然真二つに割れて、太子を包んで匿いました。九死に一生を得た、太子は白膠の木(カエデ)をきりとり、四天王の像を作り頂髪にそれをおき、今もし我をして勝たしめるならば、四天王のために寺塔を建てようと請願しました。また、馬子も四天王・大神王が我を守って勝利を得さしめるならば、諸天と大神王のために寺塔を建て三宝を流通せしめようと誓いました。
馬子・太子らは戦の後、太子を救命したクスノキのそばに曽我・物部両軍の英霊をねぎらい、太子堂(勝軍寺)を建立するとともに、摂津に四天王寺を創建しました。これが、現在天王寺区にある四天王寺ですが、創立当時は現在では想像もつかないほど広大な寺領を持っており、それまで物部氏の所領であった河内地方の土地の多くも施入されました。これについては、四天王寺創立の経緯を示した「四天王寺御手印縁起」(国宝)に見ることができます。そこには、戦の後に太子が四天王寺を建立、守屋の奴ら二百七十三人を四天王寺の奴婢(ぬひ)とし、田園十八万六千八百九十代を同寺の所領にしたと記載されています。また、田園の明細が示されており、物部氏の所領であった地名が列記されています。そのうち旧布施市内であると推定されるものを抜き出しますと、
鞍作地ー渋川郡長瀬里
衣摺地ー渋川郡柏田里・衣摺里
蛇草地ー渋川郡宅良里
足代地ー渋川郡梓里
などがあります。つまり、現在の東大阪市の長瀬川以西の土地のほとんどは四天王寺創建時に寺領に施入されていたことになります。そして、ここにある地名は、はるか昔四天王寺創立前の物部氏の所領であった時代より続く、つまり古墳時代から存在する由緒あるものなのです。足代の地名は平安時代には石清水八幡宮の荘園であった記録が残されており、また、その後には八尾・教興寺の荘園に含まれていたとの記録があります。
そして、足代の地は時代の流れとともに大きく発展しましたが、八尾市太子堂にある勝軍寺(別名、下の太子)には、今も太子を救ったクスノキの大木が神妙椋樹として祀られており、よく見るとその大木の割れ目からは太子の像がちらっと現代の我々の生活の様子をうかがっています。
 
参考資料:布施市史第一巻/布施市、郷土をたずねて/長瀬農協、東大阪市の歴史と文化財ー改訂版ー/東大阪市教育委員会、他
 

<写真1>四天王寺御手印縁起(国宝)
四天王寺創建の経緯を示したもので、平安時代の作とされているが、資産関係の内容は創建当時の古い書物から転載されたものと考えられている。写真の部分には足代の他、長瀬、衣摺、蛇草の地名が見られる。

 

<写真2>神妙椋樹
写真左:物部守屋の軍に反撃され、絶体絶命となった聖徳太子を守ったとされるクスノキ。勝軍寺(八尾市太子堂)に祀られている。
写真右:神妙椋樹の拡大写真。クスノキの割れ目から誰か(?)が現世を覗いている。