物部氏最期の決戦・衣摺の戦
物部氏と蘇我氏というと大化の改新前に争った豪族であることは、高校の日本史が赤点であった私でさえ知るところですが、この物部氏の本拠地が現在の東大阪市衣摺から八尾市の渋川・跡部にかけてであったこと、さらに両者の最終決戦が「衣摺の戦」であったことは、私と同様ご存じない先生もおられるのではないでしょうか。
「衣摺」(キズリ)という地名は、日本書紀にも現れる古い地名で、文献によっては「衣揩」と表記してキヌスリと読んだり、「衣摺」と表記してキスリと読んだりしますが、いずれも現在の東大阪市衣摺をさしていることは異論の無いところです。ちなみに、木型に草木や花鳥などの形を彫刻しその上に布帛をおき、藍など染草で模様を摺り出した衣のことを摺衣(あるいは揩衣)といいます。
6世紀前半、保守的なスタンスをとる物部氏は大連の姓を大和朝廷からもらい軍事・警察を職務としていました。それに対し進歩的な思想で有力帰化人をも配下にした蘇我氏は大臣の姓をうけ外交・財政を職務とし、物部氏と激しい主導権争いを演じていました。折しも大陸より伝来した仏教を受容するのか否か、つまり崇仏か排仏かの論議で両者の対立は頂点に達し、さらに用明天皇が在位2年で崩じた後の皇位継承争いでとうとう戦へと発展しました。
蘇我馬子は有力豪族の紀・巨勢・平群・春日・大伴・阿倍氏らを味方に付け、さらに厩戸皇子(後の聖徳太子)ら多くの皇族の助けも得て、物部守屋を討伐することを謀りました。用明2年(587年)7月、大和盆地から二上山の北側および南側の街道を経て、志紀郡(現在の藤井寺市・柏原市)の物部氏の領地を攻めた蘇我の軍勢は、さらに旧大和川に沿って北西方向に進軍し、物部氏の本拠地であった阿都(跡部)の館、渋河(渋川)の館(ともに現在の八尾市)と攻略していき、最終決戦の場になったのが衣揩(衣摺)の館でした。
ここで日本書紀の記述を引用しますと、「蘇我馬子、厩戸皇子らは軍兵を率いて、志紀郡から物部氏の渋河の館に至った。守屋は、子弟(やから)と奴(やっこ)の軍隊を率い、稲城(いなぎ)を築いて防ぎ、衣揩(衣摺)の朴枝(えのき)の間(また)にのぼり、矢を雨のように放ったが、守屋軍の強盛なことは家や野に溢れる有様であり、蘇我氏率いる軍は苦戦を強いられて三度も退却しなければならなかった。厩戸皇子は白膠木(ぬりでのき)を切り取って四天王の像を彫り、頂髪に載せて戦勝を祈ってから、さらに攻めた時、迹見首赤檮(とみのおびといちい)が守屋を射落とし、その子弟たちを殺し、守屋の軍を四散させて勝つことができた。」と記されています。ここで言う稲城については、「稲をいれておく城=収穫した稲を貯蔵するための倉をもつ、堀をめぐらし石や木で垣を築いた強固な城」と解釈する説もありますが、「稲倉から持ち出した稲を高く厚く積み上げて矢の攻撃と敵の侵入を防ぐ防塁としたもの」と解釈するのが一般的であり、衣摺の稲城も蘇我氏の急襲に抵抗した物部氏が稲を積み上げて急造した砦であると解釈されています。
長瀬農協の南西300メートル、旧八尾街道と御本山道(ひらの道)とが交わるところ(衣摺3丁目15)に、半分アスファルトに埋まった古い道標があります。この北側にある光泉寺付近に、明治40年に長瀬神社に合祀された衣摺神社がありましたが、ここには守屋がのぼり矢を放ったと伝えられる榎の古樹があり、神木として祀られていたそうです。また、ここから現八尾街道を南下すると八尾市太子堂という聖徳太子ゆかりの地名があり、守屋首洗池(勝軍寺内)や物部大連守屋の墓があります。
参考資料:布施市史第一巻/布施市、郷土をたずねて/長瀬農協、東大阪市の歴史と文化財ー改訂版ー/東大阪市教育委員会、他
<写真1>衣摺の道標
旧八尾街道と御本山道(ひらの道)とが交わるところにある。「南すぐひらの、西すぐ天王寺、東すぐ志起山、北すぐ玉津くり」と書かれているが、半分アスファルトに埋まっている。写真左奥の大きな屋根が光泉寺。
<写真2>光泉寺
この寺の北側に衣摺神社があり、大正初期まで守屋がのぼり矢を放ったと伝えられる榎の巨大な根株が残されていた。
<写真3>守屋首洗池
討ち取った物部守屋の首をこの池で洗ったと言い伝えられている。蘇我氏・厩戸皇子(聖徳太子)らの軍勢の勝利を祝い創建された勝軍寺(別名「下の太子」)にある。
<写真4>物部大連守屋の墓
勝軍寺の東100メートル、国道25号線をはさんで旧八尾市立病院の正面に建つ守屋の墓。