東大阪の郷土史

当医院のあります東大阪市は弥生時代より続く歴史のある町です。過去を伝える町並みや史跡は市内各所に今も見ることができます。旧布施市を中心にその題材を探し、東大阪市西歯科医師会会員広報誌(よみすて瓦版)の「布施郷土史」というコーナーに執筆したものです。

繰り返す大和川の氾濫により形作られた重層遺跡・瓜生堂

繰り返しやって来た大型台風と中越地震、昨年は天災の多い一年でした。特に台風23号による豊岡や舞鶴の洪水は街全体が水没し、まるで湖のような光景でした。古代より昭和40年代まで、旧大和川の流域である中河内も頻繁に洪水に見舞われていた地域ですが、河川の改修や下水道、ポンプ場の設置などの大掛かりな治水事業のおかげで、幸いにも昨年は大きな被害を被ることはありませんでした(写真1)。 
縄文時代の海岸線は現在の瓢箪山辺りでしたが、その後、弥生時代には海面の低下とともに大和川から運ばれてきた土砂が広く堆積し河内地方の平野が形成されていきました。そして肥沃な土砂に覆われ、水も豊富に得られる旧大和川の流域は定住し農耕するのに適した土地であり、大きな集落がみられるようになりました。
瓜生堂遺跡は近鉄奈良線と中央環状線が交差するあたりから南に800m、東西に700mの範囲に広がる重層遺跡で、その多くが第二寝屋川の開削や下水道幹線の埋設、ポンプ場の建設など旧大和川水系の治水事業を期に発見されたものです(写真2)。縄文時代はこの辺りが海であったことを示す地層の上、地下約4mの層に弥生時代前期中頃の遺構、つまり最初にこの辺りに人々が居住を開始したころのムラのあとがあります。そして交互に重なりあう砂層と粘土層を挟んで、その1~1.5m上層に弥生時代中期の広範囲におよぶ遺構が存在しています。ここでは瓜生堂の名を一躍全国的に広めることとなった、当時の代表的な墓の形態を示す方形周溝墓が70基も発見され、なかでも現在の小阪ポンプ場の中に保存されている第二号墓はほぼ完全な形態(11m×9m×1.3m)で発見され、木棺や土器棺などが出土しています(写真3)。さらに砂および粘土層を挟んで約1m上層には弥生時代後期の小さな遺構とその上に古墳時代から中世に至る集落や寺院の遺構が存在しています。
このように、明瞭に時代が区別される遺構が重なって存在したのは、激しい大和川の洪水により一時代のムラが消滅した後、その上に土砂が堆積し、洪水が沈静化するとまた次の時代の人々がやってきて定住しムラを作っていったことを物語っています。また、くしくも洪水による土砂で覆われ、奇麗に地中に保存されていた各時代の遺構が、現代になりその洪水への戦いである治水事業をきっかけに発見されたのでした。
平安時代後期から室町時代まで続いた寺跡が遺跡の上層部から発見されており、これが瓜生堂の地名の由来と考えられていますが、古代日本人のルーツに繋がる面白い見解がありますので紹介します。日本人は以前から狩猟を中心に住み着いていた縄文人(南方系)と大陸からやって来た農耕を中心とする弥生人(北方系)との混血であると考えられています。この縄文人と同系統の人種は遠くポリネシアからニュージーランドにまで分布しており、それを証明する材料として似通った言語があげられます。特に共通部分が多いと言われるニュージーランドのマオリ語で「うりゅうどう」を解釈しますと、「ウ・リウ・トウ」、U-RIU-TOU (u=breast of a female,be firm; riu=disappear; tou=dip into a liquid,wet)、「(洪水によって元の集落が)完全に消えてしまった湿地」 となるそうです。
参考資料:
ポリネシア語で解く日本の地名・ 日本の古典・日本語の語源/http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/、
瓜生堂-近畿自動車道天理~吹田線建設に伴う埋蔵文化財発掘調査概要報告書/(財)大阪文化財センター、
東大阪市の歴史と文化財-改訂版-/東大阪市教育委員会、
郷土史のたのしみ/(財)東大阪文化財協会、他
 

<写真1>旧大和川(楠根川)の名残をのこす道路
現在の第二寝屋川の西側、八戸の里東小学校付近を南北に走る道路。その曲がりくねったところから、たびたび氾濫していた頃の川筋の様子が想像される。

 

<写真2>近畿自動車道建設前調査時の瓜生堂遺跡
箱形に区切られたトレンチで発掘調査が行われている。この昭和53年から54年にかけての調査により、瓜生堂遺跡の全容がほぼ明らかとなった。

 

<写真3>第2号方形周溝墓
ほぼ完全な形で発掘され、複数の木棺、土器棺、人骨なども発見された。弥生中期の代表的な遺跡で教科書などにも掲載されている。現在の小阪ポンプ場の建設時に発見されたが、当初の設計を変更することにより地中に埋め戻され同敷地内に保存されている。